非 時 香 果
私は男の肩にもたれていた。
男の体は痩せて骨ばっていたが、その硬さは不快ではなかった。
その硬さは、私を確固りと受け止める、強固さの証のようで快かったのだ。
私はこの男を識っている。
男の名は、中禅寺秋彦といった。
中禅寺はただそこにいた。
嫌がるでも、かまうでもなく。
それが私に、ぬるま湯のような心地よさを与えていた。
ああ、中禅寺から、好い馨りがする――
私はゆるゆると身じろぎをした。
髪が馨るのだろうか、と私の鼻は中禅寺の耳の下のあたりまで来た。
ああ、やはり好い馨りだ――
ただ、馨っていたのは、中禅寺の髪ではなく、項だったのである。
その意外な事実は、私を静かに微笑ませるのに十分な幸福を持っていた。
私はこの幸福な発見を、中禅寺にも教えてやりたくなった。
中禅寺の顔のほうに、ゆるりと首をむけながら
きみから好い馨りがするよ、と言おうとしたら、
中禅寺も何かを言おうとしたのだろうか、
こちらに振り返ろうとしていたのだ。
丁度、私の唇と中禅寺の唇が触れ合った。
しかしそれは、接吻というにはあまりにも偶然であった。
触れ合った肌のその部分が、偶々唇であったと言うようなそれは
中禅寺を驚かせるものではなく、また私にも動揺を与えなかった。
その自然さは、私を喜ばせた。
だからどこか弾むような、まどろむような声で、私は言ったのだ。
「中禅寺、聞けよ。きみから好い馨りがするんだぜ――」
◇◆◇◆
関口巽は、丸めた体を僅かに慄かせた。
覚醒した彼は、罪悪を犯したかのように、あるいは誰かを探すように、周囲を見回した。
彼の胸には、幸福の余韻と、それの失われた切ないような愛しさがあった。
彼を包んだ馨りは夢に過ぎなかったのだ。
だたその夢はまた、彼の過ごした時間の一つでもあった。
京極堂の座敷での午睡は、ふとした加減で関口にその男の馨りを手繰らせた。
そうして関口は、その眠りと馨りを通路にして、
忽ち時を遡ってしまうのだった。
「やぁ、覚醒きたのかい。関口くん。
そこでもう2時間も、ぐうすかとだらしなく眠っていたよ」
いつもと変わらぬ仏頂面で、京極堂はちらりと関口に視線を合わせた。
関口は一瞬だけ口元を緊張させたが、おどおどと京極堂から視線をはずし
斜め下の畳の縁を眺めながら、
「そうかい。大分気持ちの好い夢を見ていたんだ」と呟いて
再び京極堂を見遣るときには、じょうずに友人の仮面をかぶるのに成功した。
「それじゃ、暗くなる前にお暇するよ。」
彼はいつものように、困ったようなはにかんだような笑みを浮かべて、座敷をあとにした。
独りきりになった座敷の主は、
己の項の辺りに手を当てながら、ゆっくりと目蓋を閉じた。
京極堂は、関口の幸福を包んだ寝言を思い出していた。
…中禅寺、聞けよ。きみから好い馨りがするんだぜ……
――きみも、それをまだ大切に覚えていたんだね。
そうしてそれを、秘密にしているんだね…
了
2008.03.06 「非時香果」